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書評・エッセイ

書痴が夢見る一冊の楽園

――小田雅久仁『本にだって雄と雌があります』

内澤旬子

 ちょっと気を許すと、本が増えている。棚に入りきらずに床に一冊置いた本は、あっという間に山をなし、二十冊くらいの「塚」に育ち、雪崩を起こして床に広がる。たしかにちょっと買ったのは覚えているけど、いつのまにこんなに増えたのだ。こいつら自分たちで勝手に増殖してないか?
 待ち焦がれていた小田雅久仁の第二作は、開けて吃驚、蒐集した本たちが、交接しては産まれ、飛び交うという、書痴たちのための、壮大な妄想、じゃない、幻想小説だった。
 熱狂して啜るように読んだ、前作『増大派に告ぐ』での、ダークとはこのことだってんだい!!といわんばかりのどす黒い文体はナリを潜め、洒脱で愉快な講談を聞いているかのような、冗談がふんだんにちりばめられた文章に、はじめは腰が砕けそうになった。しかしそれも一瞬のこと。気を取り直してゲラをめくるうち、夢中になって読みすすめてしまった。
 洒落と冗談だらけの文体にはまってしまったというのもある。デビュー作から大幅に雰囲気を変えて、よくもまあここまで書けるものだと感嘆した。しかしそれだけではない。なにより自分の身に覚えがありすぎる、書物蒐集が物語のモチーフになっていることが、大きい。
 主人公は、深井與次郎。語り手である「私」の祖父にあたる。大学で教鞭をとり、軽妙洒脱な文筆家として活躍し、昭和六十一年に客死するまで、書物にとりつかれ蒐集を続けた人物である。
 素封家らしき立派な日本家屋の、ありとあらゆるところに本棚を作りつけ、みちみちと本を入れていた、本の虫。
「私」が幼い頃、この祖父母が住む古本屋敷に泊まりに行くと、夜更けにコトコトカタカタと本が騒ぐ音が聞こえる。書棚に刺さる本と本との隙間に、読んだことも見たこともないどころか、この世で出版されたこともない、存在しないはずの「幻書」が、虚無からひねり出された魔性の本が、ひっそりと生まれている音なのだと、祖父與次郎は、言う。
 あー、ある、そういう本。リアルに心当たりがある。誰が書いたのかも、何が書いてあるのかも、まるでわからない、なによりそんなものをどうして買ったのかも、よく覚えていない本が、一時期の私の近辺に山をなしていた。こんなに沢山、死ぬまでに読めそうにないことに突然気づき、虚しくなって、まとめて処分したばかりだ。
 古書市に通って、棚に並ぶ背を端から端まで眺めていると、ふっとこれらの本たちが、本当に新刊本として、ちゃんと版元から売り出され、書店に並んでいたものなのか、わからなくなってしまったものだ。あまりにも雑多な本が多すぎて。
 それらの本も、開けば一冊一冊に、はじまりがあり、奥付までのあいだに一つの物語、いや世界がある。一軒の家とも誰かの一生とも言える。読む者の一生をねじ曲げるどころか、歴史を変える本だってあると思うと、ふと怖気づく。
 いつも気になっていた。これらの本たちは、著者の想いは、どこから来てどこに行くのか。読み手が所有している時間なんて、たかが知れている。たどり着く先はあるのか。アレクサンドリア図書館? いやいやいや。じゃ、ボルヘスのバベルの図書館? いやいやいや。
 著者は膨大な書物と本の虫たちのために、文学史上に新たなる伝説の巨大幻想図書館をつくり上げたのだ。それもボルネオの奥地に。六本足の象まで飛ばしちゃって。
 與次郎の生涯を軸に、「幻書」を巡り、奇想天外にどこまでもトットコ転がっていく法螺の連発みたいな物語だというのに、途中から私は涙が溢れてとまらなくなってしまった。 
 どんな天才が一生をもってしても、この世の全ての本を読みきることは、智の全てを掌握することは、できない。それなのに、一冊でも多く読みたいと願う傲慢さと、虚しさ、そしてそれでも抱いてしまう愛おしさ。孤高といえば聞こえは良いが、独りよがりにもなりがちなのが書物愛である。たいていの書痴は孤独だ。それなのにこの物語は、なんだかいい感じに人間愛にも溢れて終わる。
 私が手放した本たち、ボルネオの奥地まで飛んで、與次郎たちに読まれているといいなあ。

 (うちざわ・じゅんこ イラストルポライター)

小田雅久仁『本にだって雄と雌があります』978-4-10-319722-5