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書評・エッセイ

桑田佳祐は詩人である

――桑田佳祐『桑田佳祐 言の葉大全集 やっぱり、ただの歌詩じゃねえか、こんなもん』

鈴木光司

 高校時代、ぼくはロックンローラーだった。学園祭のステージはもとより、地元浜松のライブホールやロックコンテストに出たりして、勉強そっちのけでバンド活動にのめり込んだ。
 大人たちに混じって演奏する合間に、ふとしたきっかけで、先輩ミュージシャンと論争になったことがある。
 論争のテーマは、「ロックミュージックにとって歌詞は大切か、否か」であった。
 ぼくが、「ロックにとって歌詞はいかほどのものでもない」と論じるや、先輩は、ボブ・ディランを引き合いに出し、「歌詞はロックの命である」と論駁してきた。
 喧嘩になることはなく、じっくり話し込んで議論を終えたけれど、高説を拝聴しても持論が変わることはなかった。当時、ぼくが聴いていたのは英米のハードロックばかりで、ボーカリストの声はひとつの楽器としてしか響いてこなかった。そもそも、英語がわからないのだから、歌詞が織り成すストーリーや背景を理解できるはずもない。当時、コピーしていたディープ・パープルのリードボーカル、イアン・ギランの歌は雄叫びに近く、真似てうたった学園祭のステージを見たガールフレンドからは、「光司くん、ずっと吠えていたね」とありがたい感想をいただいた。
 パワーで押し切るハードロックを好み、生ギターで女々しさを語るフォークが苦手という性癖も影響してか、高校時代のぼくは、歌詞をおろそかにしていた。
 ロックンロール一色で染まり、まったく勉強をしなかった高校時代を反省し、受験浪人を経て大学の文学部に進んだ年、ぼくはある新人バンドのデビュー曲を聴いて、強い衝撃を受けた。
 サザンオールスターズの『勝手にシンドバッド』である。
 譜面として表現するのがやっかいな独特のリズムを持ち、身体全体で正確にビートを刻まなければうたうことはできない。メロディライン、リズム、歌詞、すべて斬新で、聴けば聴くほど、この曲の持つ凄さを実感した。
 一体、どこが凄いのか……、繰り返し聴いて歌詞を暗唱し、コンパの席でアカペラでうたう回数が増すにつれ、脳裏に、湘南の海を舞台に繰り広げられる若い男女の恋が、躍動感を持って動き始めてきたのだ。
 しかも、脳裏に浮かぶイメージは、そのときどきの心模様と呼応して、微妙に形を変えてくる。あるときは恋の成就を予感させる明るい歌、あるときは夏の終わりとともに消えた恋を懐かしむ歌、またあるときは、なまめかしい腰つきが次の行為を連想させる卑猥な歌、といった具合に、背景のストーリーはめくるめく展開をし、自在に流れてゆく。
 凡庸な歌詞が、これほどの自由さ、躍動感を内包することはない。陳腐さは、ものの動きを止め、固定させてしまう。突出した言語運用能力の持ち主のみに可能な神業であろう。
 以来、ぼくは桑田佳祐が作る歌におおいなる興味を抱き、可能な限り、カラオケのレパートリーに取り入れている。
 うたうたび、メロディと歌詞、両方から喚起されるシーンが脳裏に踊って、実に楽しく、大きなカタルシスを得る。桑田佳祐の歌は、ぼくにとって、最高の娯楽である。
 もし高校時代に桑田佳祐の歌を聴いていたら、先輩ミュージシャンと論争することもなかったに違いない。
 今回、『桑田佳祐 言の葉大全集 やっぱり、ただの歌詩じゃねえか、こんなもん』のページを捲っていて、エッセイの部分はともかく、歌詞が記載されたページから、文字が織り成す独特の模様が浮き上がってきたことに驚かされた。漢字とひらがな、日本語と英語のバランス、一行一行の長さ、間の取り方、言葉の配置……、活字となって表れた構図そのものが、流れるような美しさを持っている。読む前、うたう前から、歌詞が生きていることがわかるのだ。
 モーツアルトやベートーベンなど、クラシック名曲のスコア自体が、完成された絵であるのと似ている。
 この本は、桑田佳祐のエッセイ集であると同時にすぐれた詩集でもある。

(すずき・こうじ 作家)

桑田佳祐『桑田佳祐 言の葉大全集 やっぱり、ただの歌詩じゃねえか、こんなもん』978-4-10-332831-5