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インタビュー

ニホンショウセツギジュツシ日本小説技術史

渡部直己

2,938円(税込)

小説から技術を抜き去ったら、一体どれほどのものが残るというのだろう?

小説を、個人的な思い込みや既成の風評にしたがって読むのではなく、書かれた文章を徹底的に読み込んだ上で、作家の無意識の領域にまで想像力を馳せていく著者が、馬琴から逍遥、紅葉、二葉亭、鴎外、一葉、藤村、漱石、秋声、芥川、谷崎、横光、尾崎翠たちの代表作を、「技術」の視点から論じた、日本文芸評論の記念碑的大作。

『日本小説技術史』刊行記念 インタビュー

「小説」と「人生」の怖るべき逆説

渡部直己

――今度のご本は、いわゆる「近代文学史」を「技術」という観点から捉えなおすという画期的な着想に支えられていますが、その着想は、どこから来たのでしょうか?

 まず、内容中心の文学史にたいする積年の違和感というものがあり、また、この種の本がきまって『浮雲』と「言文一致」を特筆して始まるという定石への反撥がありました。前者は、わたしの批評一般に共通する傾向です。小説を内容だけではなく、むしろ、それを生み出す諸形式により強く着目して読む。そうした人間が、「文学史」をあつかえば、当然、「技術」中心になるわけです。後者にかんしても、わたしの通例というか通弊に近く、他人と同じことはしたくない。かつて、ある文芸雑誌で「文芸時評」を引き受けたさいにも、○×採点式でちょっとした騒ぎになりましたが、あれと同じで、やるからには目新しいものを出したかった。で、これも与って「技術」になるわけですが、具体的には、曲亭馬琴による本邦初の小説技術論「稗史七則」の発見が大きかった。近代文学は馬琴を否定することで始まったなんて、技術史的には、真っ赤な嘘ですよ。『書生気質』はおろか、『不如帰』も『金色夜叉』も、『破戒』の一部でさえ、明治の長編小説はほとんど、大なり小なり依然として馬琴が書いているといって過言でないくらいです。『八犬伝』自体も、小説における「話者」と「読者」の問題をはらんで大変面白くて、これを論じた第一章を書き終えたあと、この線でまあやれるか、と。

――その馬琴を除くと、本書のラインナップは、坪内逍遥から横光利一まで、かなり教科書的な十数名の作家たちが並んでいて、この人選は逆に「平凡」にみえますが……?

 ええ、目次に並ぶ作家たちや、時代順に扱う文学的トピックなどについては、まったく常識的で、従来の「文学史」からほとんど何も変えていません。しかし、それは当然で、ビッグネームはさすがに「技術」をもっている。そのくせ、これまで誰一人その「技術」をまともには論じていないのだから、上手く論じさえすれば、教科書的な対象の「平凡さ」がそのまま「驚き」に変わるわけです。その意味で、ちょっと大袈裟にいえば、「すべてが変わるために」何も変えないというブレッソン的な主題を、わたしなりに演じたつもりです。批評家生活三十年で培ったあの手この手を繰り出して(笑)、まあ、けっこう上手くやったつもりです。

――お嫌いな作家や苦手な作品もあったわけですよね。

 もちろん。そもそも、馬琴を原文で読むことがあろうとは、この仕事以前には予想もできなかったし、鴎外の「史伝」もそうですね。志賀直哉も徳田秋声も、どちらかといえば敬遠していたほうで、横光の『上海』なんて積極的に嫌いでしたが、こうしたものにも真剣に接するというのは、稀有の体験でした。しかし、何か出てくるんですよ、ちゃんと読むと。どれほど苦手な作家や作品でも、技術論的な発見が必ず出てくる。のみならず、技術をこえた人生論的な「ドラマ」までが、時になまなましく現れてきたりして、そうした一瞬に出会う度に、おもわず息を呑む。谷崎の福々しさに対する芥川の痛々しさや、最晩年の鴎外の被った天罰めいた出来事などがその典型ですが、技術をこえるなまなましさは、しかし、技術の追跡を通してしか発見できない。その逆説にまた、ある種の「畏怖」を覚えました。

――どういうことですか?

 つまり、「技術」を介して小説を読みこんでゆくことは、一方では、「人生」と「小説」との安易な反映関係を切断することです。そのくせ、この読み方を徹底すると逆に、偶然とか無意識とか、ほんらい「人生」に属して「技術」とは無縁のものまでが視界に浮上する。それは感動的でもあり、ある場合、怖いくらいの出来事なのですが、ともかく、そんな体験もふくめ、今回ほど「小説」というものの潜在力を感じたことはなかった。ですから、本書は、「小説」好きの方々、あるいは、とくに、潜在力そのものといってよい若い人に読んで貰いたいと願っています。

 (わたなべ・なおみ 批評家)

渡部直己『日本小説技術史』978-4-10-386002-0