書評

2012年9月号掲載

象徴化への抵抗

――斎藤環『原発依存の精神構造 日本人はなぜ原子力が「好き」なのか』

國分功一郎

対象書籍名:『原発依存の精神構造 日本人はなぜ原子力が「好き」なのか』
対象著者:斎藤環
対象書籍ISBN:978-4-10-314052-8

 本書は二〇一一年九月から二〇一二年五月にかけて文芸誌『新潮』に掲載された斎藤環の連載評論「“フクシマ”、あるいは被災した時間」をまとめたものである。単行本化にあたりタイトルが変更された。新しいタイトルは本書全体の紹介となっており、連載時のタイトルはその出発点にあった問題意識を伝えている。原発事故は我々の時間意識を完全に変更させてしまった――これが本書における斎藤の出発点である。
 原発事故は、通常なら相容れないはずの三つの時制の共存、「時制の混乱」をもたらした。我々はいま原発事故という決定的な出来事が起きてしまった後の時間を生きている(斎藤は精神医学者木村敏の言葉を借りてこれをポスト・フェストゥム[=祝祭の後]と呼ぶ)。しかし、その出来事は終わっていない。この事故がいったい何をもたらすのかを理解し得ない我々にとって、いまもその決定的な出来事は起きつつある(イントラ・フェストゥム[=祝祭の間])。そして、同じような震災と原発事故がいずれまた起きるかもしれないという意味では、我々は次の事故を予期しつつ生きている(アンテ・フェストゥム[=祝祭の前])。これら異質な時制が、我我の中で共存している。時間が被災したのである。
「時制の混乱」がもたらされたのは、ここでの決定的な出来事が原発事故であったからに他ならない。原発事故はその全貌も波及効果も定量的に把握できない。それは「了解不可能な惨事」である。故に我々はそれを、どう経験して良いかわからない。斎藤は哲学者ジル・ドゥルーズの言葉を借りつつ、人々は「“潜在的”脅威」に反応していると述べて、この事態を説明している。この原発事故は、象徴的なメカニズムによって体験の構造にはめ込むことができない。だが、それにもかかわらず、あるいはそれ故にこそ、この事故は象徴化されてしまう。この事態を端的に示しているのが「フクシマ」というカタカナ表記に他ならない。こう表記することによって人はなんとなくわかった気になれる。実際にはどう体験して良いのかも分かっていないのに、何かを皆で共有し、了解した気になれる。だからこそ連載時のタイトルの「フクシマ」には引用符が付されていた。
 本書が一貫して主張しているのは、この象徴化への警戒である。但し斎藤は単に口先で「警戒せよ」と述べているのではない。本書で斎藤は自らが連載期間中に接した事柄への感想をひたすらに綴っている。単行本化にあたり、斎藤は連載原稿にほとんど手を加えなかった。哲学から文学、精神医学から瓦礫処理、鉄腕アトムからガンダムまで――実はこうした無数のトピックの間に選択の必然性を見いだすのは難しい。そこには「原子力」という共通項があるだけだ。しかし、そうした感想がただ羅列されていくことには必然性がある。無数のトピックを一つ一つ具体的に、そして――斎藤の言葉を借りれば――「批評」的に論じていく以外に、この象徴化=単純化に抗う術はないからだ。もしも、それらトピックの選択に必然性があったかのように連載原稿を書き直したのならば、斎藤は、どう経験して良いのかわかっていない出来事を無理矢理に経験の構造の中にはめ込むことになってしまっただろう。斎藤はその誘惑に抗った。これこそが、本書における象徴化への抵抗の最高度の実践に他ならない。
「フクシマ」の象徴化への抵抗は、斎藤自身も自らの思想であるとする「脱原発」の運動がこれからどういった方向に向かっていくべきかという問題と切り離せない。斎藤はラカン派よろしく「享楽」という言葉でそれを説明してみせる。「反対運動」なるものが一般に何らかの享楽をもたらすことは否定しえない事実である。何も為すことがない状態に耐えられない人間という存在は、外から課題が与えられることを欲するからである。斎藤は「『反原発の享楽』におぼれることは、ふとしたはずみで『親原発の享楽』に反転しかねない」と指摘している。もはや事態は、悪者を立てて、それを罵倒することでは到底どうにもならない地点にある。それ故に斎藤は、行政や企業との政治的で反- 享楽的な「交渉」の必要性を説く。それによってこそ我々はこの運動を維持し、成熟させていくことができる、と。
 評者も「交渉」の必要性に共感する。斎藤が本書冒頭で言及したドゥルーズは「折衝(プールパルレ)」の必要性を説いていた。それは具体的な問題解決に向かうための術である。「時制の混乱」に戸惑いながらも、「フクシマ」という象徴化に抵抗し、「交渉」、「折衝」を今後も続けていくこと。この視点はデモが大きなうねりを生み出している今、今後の運動にとっての大きなヒントになるはずである。

 (こくぶん・こういちろう 哲学者)

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