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書評・エッセイ

愛でも恋でも友情でもなく

――松浦理英子『奇貨』

佐久間文子

 奇貨おくべしというように、大切な品物とか人材とか得難い好機であるとか、奇貨ということばは軍事や経営判断などどちらかというと武骨な局面で使われることが多いけれど、松浦理英子が五年ぶりに発表したこの小説に出てくる奇貨のニュアンスは全然ちがう。
 四十五歳の貧乏私小説作家本田が2LDKプラス納戸のマンションで同居しているのは、十歳年下の女性、七島である。前に勤めていた会社の後輩で、男社会からはみ出している感じの本田にさりげなく味方してくれる妹のような存在。そのくせ辛辣な観察眼があり話も合う。友人がほとんどいない本田にとっては小説にたびたび登場させることもあるいちばん近しい間柄の人間だが、恋人ではない。
 本田は異性愛者だが七島はレズビアンで、知り合ってしばらくして七島から自分の性的指向を聞かされたとき、少々落胆する一方で感じたのは「とても価値のある稀少なものを手渡された」嬉しさと面はゆさだった。思わせぶりで魅力的な同僚寒咲(かんざき)(異性愛者だが同性にも関心のある彼女のことを七島は「半端ヘテロ」と呼ぶ)に七島がいいようにふりまわされ、腹を立てて熱くなるのをそばで見ているのも恋愛経験の乏しい本田には面白くてしかたない。
 中年となったいまは性的欲望もあまりなく、糖尿病の診断を受けたこともあって、この先だれかと結婚することは難しいと考え、女友達と女同士のように仲良く遊んだり世話し合ったりすることだけをひそかに願っている。恋愛感情のない七島との暮らしはだから快適で、七島が洗濯機に忘れたブラジャーを本田が代わりに干しておいてもふたりの間に波風は立たない。
 だが三年続いたシェアメイトとしての関係は、思わぬことから揺らぎ始める。七島に新しい友人ヒサちゃんができたのだ。七島の態度はとりたてて変わらないものの会話が減り、いちばんの悩み、「半端ヘテロ」寒咲についての愚痴はもっぱらヒサちゃんに打ち明けられることになる。
 充実した様子の七島に焦る本田。七島からレズビアンであると聞かされた本田の反応を思いおこすと、知ることによって相手のことを掌握したい気持ちはそのときすでに芽生えていたのかもしれない。子どものころから女性相手のほうが話しやすかったし、「女の気持ちがよくわかる男」と言われてきた。だけど完璧な女同士のようなつきあいをしてもらえるわけではなかったことを思い出す。どの場所にも落ち着くことのできない自分。心の奥底をのぞきこんだあげく、女同士の遠慮のない会話に参加したい本田はとっぴな行動へと突き進む。
「女友達の女友達に嫉妬する男は『アルプスの少女ハイジ』のペーターだけかと思ってた。」
 若い七島に中年男の奇妙な疎外感がわかるはずもない。すべてが明らかになった後も本田の暴走はとうてい理解されないし、もしかしたらつぶさに彼の心の動きを追ってきた読者も当惑させるかもしれない。けれども一瞬、当惑したあとで、気持ちの深いところにゆっくり届くものがある。愛とか恋とか友情とか、名前をつけてわかった気になっていたもの以外に、おさまりきらないさまざまな思いが揺れていることに気づかされるはずだ。
 松浦理英子の小説は人と人の関係を既成の型にはめることを嫌う。主人公が犬になって好きな人のもとで暮らす奇想天外な前作『犬身』の関係をドッグセクシュアルと呼ぶ人もいたようだが、『奇貨』の本田と七島はどうにも名づけようがないだろう。人が人といることでひきおこされる心と体の動きを、ありきたりの言葉によりかからず、繊細にダイナミックに時にユーモラスに描き出す。なにしろ本田は子どものころから涙を堪えると涎が出る体質で、涎によって自分の心が痛んでいるのを知るのだから。
 かけがえのないものを失おうとするとき、奇貨ということばがさりげなく現れる。このことばがこれほど美しく使われる例をほかに知らない。まさしく奇貨として、本作は読者の前にそっと差し出される。
 思春期の少女たちの心の揺れを鮮やかに描いた一九八五年発表の中編「変態月」も同時に収録。

 (さくま・あやこ 文芸ジャーナリスト)

松浦理英子『奇貨』978-4-10-332721-9