書評

2012年7月号掲載

水論壇、待望の横綱

――沖大幹『水危機 ほんとうの話』(新潮選書)

椎名誠

対象書籍名:『水危機 ほんとうの話』(新潮選書)
対象著者:沖大幹
対象書籍ISBN:978-4-10-603711-5

 二十一世紀は「水戦争の時代」ということが言われている。とはいえ、日本人にはあまりピンとこないようで、ぼくの知るかぎり、日常の話題にあまりその言葉は出てこない。これは日本という国が位置的に国土環境的に非常に有利な水供給の適地にあり、全国に住む人に、明日自分の飲み水がない、という不安がまずない、ということが関係しているのだろう。
 けれど人間が生きていくための「真水」は、地球という限られた空間を、外部から新たな補給もなしにただ循環しているだけである。
 八年ほど前から、ぼくはこの水問題についての本(『水惑星の旅』)を書くために各方面を取材した。水に関する本も四十冊ほど読んだ。読んでわかったのはその多くが「同じことを」書いている、ということだった。いくつかのデータをみんなで使い分けして書いている、いわゆる「孫引き」「ひ孫引き」で論を組み立てているケースが非常に目についた。なかには意図的と思うやりかたで問題を誇張し、わたしたち国民全体が渇きで倒れてしまいそうなことが書いてある。これでは本当の意味での二十一世紀の水危機が理解されることはないだろう。
 本書は、そういう曖昧に錯綜する「水問題」を、はじめて網羅的に、かつ科学的にとらえ、明確な分析と思考によって、タイトルどおり「ほんとうの」水問題にはじめて真正面から切り込んだ、いわば水の論壇界待望の横綱登場というに相応しい重要な一冊である。
 六章からなる構成は、最初に地球全体の水についての概括からはじまる。長い時間、水問題を専門に追求してきた著者がフットワークよく世界のフィールドを取材し、膨大なデータを駆使して、今、地球の水がどうなっているのか、非常に分かりやすく説明している。それらの多くはもはや「法則」として認識しておいたほうが、今後の考え方に役立つ、と思えるものである。
 たとえば第一章のまとめにある「持続的な水資源利用を考える場合、淡水の貯留量(ストック)ではなく循環量(フロー)で考えるべきである」「水はローカルな資源だ」「農業用水には『水で水を運んでいる』という側面がある」などなど多岐にわたる指摘のひとつひとつが納得しやすくわかりやすい記述なので、読み進むうちにきわめて自然に目下の水問題の「ほんとう」が見えてくる小気味よさがある。
 第二章の「水、食料、エネルギー」は著者が早くから着目、指摘していたバーチャルウォーターの問題点をテンポよく分析してくれているので、食料自給率の低い日本の未来ははなはだ世界に肩身が狭く、かなり暗いものと認識していたが、論理的に考えると、それが世界環境に格別悪い影響をおよぼしているわけではない、ということがここで判明する。今出ている幾多の本には仮想水の消費増大が世界の水事情に相当悪影響を与えている、といたずらに警鐘を鳴らすものばかりなので、本書のようにしっかりしたデータと分析であらためて俯瞰的にそう指摘されると安心した気持ちになる。
 第三章「日本の水と文化」では、日本はモンスーンアジアの変動帯に位置するため、洪水にも渇水にもそれなりの危険性がある、と述べているが、梅雨や台風などの定期的な水の大量供給によって、水環境に恵まれている好条件はかわらない。問題は都市の水利用と山野の水供給の無駄のないシステムづくりだろう、ということがわかってくる。
 この本を読んでいて知的カタルシスを怒濤のように感じるのは「第五章 水危機の虚実」だろう。章タイトルにストレートに示されたように、まだ結末の見えない地球規模の「水危機」は、たとえば来るべき早い将来、わたしたちも家族ぐるみ水不足パニックに巻き込まれるのだろうか、という単純な不安と疑問に直面している。
 けれど著者は同じように膨大なデータとその分析によって冷静に推論していく。
「地球上の水はなくなることはなく、マクロにみれば枯渇はしない」
「日本の森林を外国資本がダミー会社を使って買い占めているのは『いい水』を狙ってのことだろうが、そういう動きに過敏に対応する必要はない。むしろ産業がなくて困っている地域に資本が投下されるのは喜ぶべきことである」
 この太っ腹な指摘には目を見張ったが、水問題の権威がそう分析するのだからとりあえず私たちは静観していいのだ。スリリングだが、深い思考あってのものだろうから、この指摘もまことに刺激的である。

 (しいな・まこと 作家)

最新の書評

ページの先頭へ