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書評・エッセイ

赤ちゃんを知ることは人間を知ること

――『なるほど!赤ちゃん学 ここまでわかった赤ちゃんの不思議』

岡田浩之

「日本赤ちゃん学会」が設立されたのは二〇〇一年。欧米では一九七〇年代から乳幼児を対象にした研究が盛んになっていましたが、その流れを汲み、日本にも「赤ちゃん学」が確立されてから、今年で一一年になります。
 とはいえまだ新しい研究分野で、あまりよく知られていないことは否めません。「赤ちゃん学とは何?」と尋ねられれば、私だったら「赤ちゃんが何を見て、何を聞いて、何を考えているのかの研究」と答えます。この「赤ちゃん」を「人間」に置き換えれば、すでに長い歴史を持つ社会学、経済学、文化人類学など既存の学問と同じ、ということもできます。でも私たちがあえて「赤ちゃん」を研究対象にしていることには、赤ちゃん学研究者それぞれに目的と理由があります。
 私は、といえば、実は元々、㈱富士通研究所の研究員でした。八〇年代後半のことです。当時は「第五世代コンピュータ」の開発プロジェクトに所属し、「エキスパートシステム」といって、特定の分野の専門知識をすべてデータベース化し、複雑な問題に対する答えを、コンピュータのプログラミングで推論するシステムの構築を目指していたのです。
 ところが、プロジェクトが進めば進むほど、作業は行き詰っていきました。「人間の知能をすべてデータベース化することはできない」とわかってきたのです。「人間の知能」とは何かさえわかれば、プログラミングできる。でも、それがわからない。突破口を求めて人間の記憶や推論の仕方を研究していくうちに、一つの気づきがありました。まだ外からプログラミングされる前の知能――「赤ちゃん」に学べばいい。
「玉川大学赤ちゃんラボ」は二〇〇三年にスタートしています。私は〇六年から本校に着任し、本格的に赤ちゃん学を研究することになりました。普段は学生たちに認知科学、人工知能、発達科学などに関する講義をしながら、ラボでの調査・実験を続けています。
 一般の方から登録者(赤ちゃんとその保護者の方)を募集し、必要な研究対象となる月齢の登録者に調査・実験方法を説明した上で、ご協力をお願いしています。保護者(多くはお母さん方)は興味を持って参加してくださっているようです。もちろん、肝心の赤ちゃんに不愉快な(!)思いをさせないよう、細心の注意を払います。特に、我々男性研究者に赤ちゃんがなついてくれることはなかなか難しく、現場ではなるべく表には出ないよう、裏方に回ります。もちろん、赤ちゃんに接したいのは山々ですが、いきなりおじさんが出て行ってもろくなことはありません。
 当初は、赤ちゃん研究がこんなに大変だとは思いませんでした。というのも、これだけ科学が進んでいるのだから、赤ちゃんについても、きっといろいろなことがわかっているだろうと考えていたのです。ところが、そうではありません。そもそも、何がわかって何がわからないのかが、わからない――赤ちゃんの「こんな能力」が見つかりました、でも、それが何のためにどのように備わっているのかは実証できません――赤ちゃん学とは、言ってみればそんな世界なのです。
 ただ、他の動物に比べて、かなり未熟な状態で生まれてくる人間の赤ちゃんが生まれ持った能力、そしてその発達、認知や学習の仕組みを調べることは、「人間」を深く知る上で、大きな手がかりになることは間違いありません。
 現在、日本で多くの大学や研究機関、企業がそれぞれの目的で「赤ちゃん学」の研究を進めています。玉川赤ちゃんラボには今後、二つの課題があります。一つは「社会性」をキーワードに、コミュニケーションを含む人間関係や環境といった社会における赤ちゃんの発達研究。そしてもう一つは「自然にできるようになる」赤ちゃんの研究を、「自然にできなくなっていく」加齢・老化に関連付けて考えることです。
 私と同じように人工知能の分野から、あるいは比較認知科学から、心理学から……など、ラボにはさまざまな分野から研究者が集まっています。今回はラボ研究者が、それぞれの分野を分担してこの本を執筆しました。各分野は一見、別々に見えるのですが、一冊にまとめてみると、微妙なバランスでリンクし、影響しあっていることを改めて実感しました。
 身近に赤ちゃんがいる方なら、本書で紹介している「実験」を試していただくことができるかもしれません。大人から見れば無力に見える赤ちゃんが、実はかなりの能力を持っていることに驚かれるかもしれません。そして、そういったことを日々研究している「赤ちゃん学」を少しでも多くの方に知っていただければ、とてもうれしく思います。

 (おかだ・ひろゆき 玉川大学脳科学研究所教授)

玉川大学赤ちゃんラボ『なるほど!赤ちゃん学 ここまでわかった赤ちゃんの不思議』978-4-10-332441-6