書評

2012年6月号掲載

「戦災復興」から教訓を汲みとる

――井上亮『焦土からの再生 戦災復興はいかに成し得たか』

秦郁彦

対象書籍名:『焦土からの再生 戦災復興はいかに成し得たか』
対象著者:井上亮
対象書籍ISBN:978-4-10-332271-9

 東日本大震災から一年近く経過した今年の二月に、ようやく国務大臣を長とする復興庁が立ちあがった。おくれた理由として「復旧ではなく復興」の建前と、「とりあえずの復旧」にこだわる本音の暗闘があったと伝わっている。理想主義と現実主義のせめぎあいと言ってもよい。
 先例もあった。関東大震災の直後に誕生した帝都復興院(半年後に復興局へ改組)、第二次大戦の終結から三か月後の一九四五年十一月に創設された戦災復興院のいずれも復興の旗印をかかげながら、実際にはなし崩し的な「復旧」へと流れてしまった故事である。
 東北復興の未来図に危惧の念を抱く著者は、その延長線上で今や忘れ去られた感もある戦災復興史の見直しに挑む。その成果が本書で、一部の専門家を除き知られることの少なかった過程や争点が鮮やかに浮かびあがった。
 評者も「名古屋は成功したが、首都東京は失敗した」式の俗説を聞いた覚えはあるが、全体の展望と都市別の苦労話を読んで、単純な決めつけではすまないことを痛感した。
 構成としては、まず中央の戦災復興院が「焦土で夢見た百年計画」の輪郭が、第一章で総論風に紹介される。次に第二章から第五章までは仙台、名古屋、広島、東京を選び出し、計画から実行に至る道程を追う。さらに「復興余聞」と題した第六章で大阪、神戸、横浜、富山、鹿児島、沖縄の諸都市をとりあげ、類似の悩みに直面した欧州諸国の事例に及んでいる。
 そのなかでもっとも読者の関心をそそるのは、「百メートル道路の偉業」と銘打った名古屋市の例だろう。何しろ戦災復興院の初期プランでは全国主要都市に百メートル道路を計二十四本作る構想だったのに、実現したのは三本にすぎない。うち名古屋が二本(残る一本は広島)で、東京は十三本の計画がゼロに終ったというから、「尾張名古屋は道でもつ、と日本中を感心させた」のも誇張とは言えまい。
 その立役者は訃報を伝えた新聞が「名古屋の父」と讃えた田淵寿郎だが、三顧の礼で彼を市の助役に迎え「すべて任せる」と約束して実行面を支えた佐藤名古屋市長の勇断と手腕も見落せない。
 対照的だったのは、著者に「首都計画のロマンと挫折」と同情された東京都の石川栄耀(ひであき)建設局長の悲運だろう。人口を三百万人規模に押さえ、八本の環状線、十二本の放射道路を骨格とする田園首都を夢見た石川の原案は、滔々と流入する人口、ヤミ市と急造バラックの乱立という不可抗的な現実の壁につきあたる。妥協策に走った安井都政に阻まれ、米占領軍(GHQ)の冷淡な反応も加わって、ついに区画整理のレベルから抜けでられなかった。
 それでも二万軒の露店整理に奔走する石川は、自宅にまで押しかけるテキ屋の脅しで身の危険を感じるほどだった。
 田淵や石川をふくめ、戦災復興計画のプランナーたちは旧内務省の技官が主軸で、彼らは一様に空襲で焦土と化した都市を理想的な姿で再生させるまたとない好機ととらえ、情熱を傾けた。なかでも石川にとっては、関東大震災の復興にさいし「大風呂敷」と叩かれて挫折した後藤新平(帝都復興院総裁)の壮大なプランの復活が悲願となった。
 だが名古屋の例でわかるように、都市計画はプランナー(技術者)と実行者(政治家)の双方に適材がそろわないと、成功はおぼつかない。しかも都市ごとに違う事情をかかえる。
 単純な善玉・悪玉観に傾くのを避けた著者は、双方に公平で暖かい視線を向け、あえて「誇るべき戦災復興」の歴史と総括した。
 とくに硬軟自在の指令塔役をこなした、内務官僚(文官)出身の大橋武夫(戦災復興院次長)に注目したあたりは炯眼と評せよう。
 東北復興と取りくんでいる関係者は、時宜を得て刊行された本書からそれなりの教訓を汲みとってもらいたいと思う。

 (はた・いくひこ 現代史家)

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