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書評・エッセイ

刊行記念スペシャル企画

『1Q84』めぐり

小さなメモ帳に何やら書きこむ綿矢さん、スケッチ・ブックとカメラを手にすいすい歩く水丸さん。4月のある晴れた火曜日、二人は『1Q84』の舞台かもしれない場所をめざして出かけました。青豆が降り立った首都高速3号線の三軒茶屋、天吾が月を眺めた高円寺の公園、ふかえりが住む青梅の二俣尾――。村上ワールドの入口へ、いざ出発!

村上春樹『1Q84』文庫化・全6冊

綿矢りさ(文)/安西水丸(絵)

img_201206_02_1.jpg「1Q84」は世界中で読まれているが、たとえばNHKの人が突然家を訪ねてきたときの、あのぎょっとする感じは、日本に住んでいないと分からない。そういうのが、ラッキーな感じがして、うれしい。日常に物語が重なる喜び。
「1Q84」の舞台かもしれない場所を訪ねるのも、そんな楽しみの一つ。日本に、東京に住んでたからこそ、へえ、いつも通っていたあそこがねえ……という感慨深さを味わえる。

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 今回は安西水丸さんと「1Q84」の舞台かもしれない場所を回らせてもらった。村上さんと安西さんの作品が好きな私が同行できるなんて、またとないありがたい機会だ。
 朝一番に向かったのが、麻布のお屋敷街。謎めいた老婦人が住む、「柳屋敷」があるとされる。マンションや小ざっぱりした屋敷が並ぶ、風通しの良い高級住宅街で、意外にも“いかにも”な家は少ない。
 しかし一軒、背の高い木々をフェンス代わりにして人目を遠ざけた、広大な敷地の、ミステリアスなお屋敷があった。個人の方の家なので、詳しくは書けないが、さりげなく、でも徹底的に人目を阻んでいる。正門がどこにあるかさえ、よく分からない。ひょっとしたら、無いのかもしれない。どこまでも続くその家の塀の周りをぐるりと散歩しながら、“柳屋敷だったら、私たちの姿はすでに監視カメラに捕らえられている”とひやひやした。

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 次は車に乗って用賀まで行き、Uターンして首都高の三軒茶屋あたりの退避所へ。作中に登場するエッソ石油のタイガーの看板は、1984年には実在したかもしれないけれど、いまは無く、違う石油会社の看板があるのみ。首都高は以前何度も通ったが、小説を読んだ後だと、ただの交通手段のための道路とは思えない。たくさんの車が猛スピードで行き交い、めまぐるしいエネルギーが渦巻いている。車をほんの短い間退避場所に停めた。道路はぐわんぐわんと揺れ、空中に建っているのが如実に分かる。思ったよりも高い位置にあり、周囲のビルを見渡せる。青豆はタクシーから出るとき、勇気がいっただろう。車に乗っているのは人間のはずなのに、ここは生身の人間が存在してはいけない、びりびりした威圧感がある鋼鉄の世界だ。
 首都高を降りて、高架下の非常階段も見に行く。階段は鉄骨がむき出しで寒々しく無機質だが、高く細長く、螺旋になった奥行きがかっこ良い。青豆が強い風にあおられながら、ヒールを鳴らして降りてきたら、ずいぶん絵になるだろう。
 階段の柱にはすでに何者かによる“1Q84”の文字と2009年の日付が。先を越された、ずいぶん前に越されちゃった、となぜかうれしくなる。

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 青豆が二つの月を見上げる天吾を発見する公園の候補は二つ。高円寺のやなぎ公園と高円寺中央公園だ。マンションに囲まれ、環七からも近い高円寺中央公園の方が、舞台である可能性は高い。でもやなぎ公園も、こぢんまりして可愛い。小さなすべり台は砂がざらざらして、すべれそうにないが、それがいい。
 すべり台に座って月を見上げる大人の男の人を想像したら、なんだかせつない。途方に暮れているのが、本人も気づかないうちに、背中ににじみ出ていそう。十歳の頃から好きな男の人が、自分たちにしか見えない二つの月を見上げているのを見つけたとき、青豆はどんな心地がしただろう。平和な住宅街の公園で、彼らの恋の帯が発光して浮かび上がる。
 お昼は安西さんおすすめのカレー屋さん荻窪の「すぱいす」で。さらっとした爽快な辛さのうまいカレーを食べると、満腹でいい感じに眠たくなり、日差しが暖かいのもあって、うつらうつら。
 荻窪から中央線に乗って、二俣尾(ふたまたお)へ。けっこう遠出しているなと感じるほど、乗車時間は長く、景色もみるみる都会から田舎へ変わっていく。東京とは思えないほどのんびりした、自然の豊かな場所で、渓谷を流れる多摩川が美しい。山に咲く野生の桜の木が、緑にほのかなピンクを溶け込ませているのもきれい。しかし山自体はけっこう険しそうで、戎野(えびすの)教授の家があってもおかしくない、浮世離れした、世界と隔絶された雰囲気もある。かつては三田氏と北条氏の戦場で、軍畑(いくさばた)という、ものものしい地名が隣にあるこの地は、ただのどかなだけではなく、奥になにかを秘めた土地なのかもしれない。
 安西さんが、すいすいと自然のなかを歩いていかれる姿が印象的だった。好きなように歩きながら、見たいものを見ている感じ。もしかしたらいまご覧になっているものが、あの楽しく素敵な絵になるのかもしれないと思うと、ついつい背後から視線の先を追った。

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 最後は、青豆が「さきがけ」のリーダーと対峙するホテル・オークラ。伝統と歴史がホテル全体に染みつき、重厚だが、本来の役割である、宿泊客が食べて眠る場所としての、リラックスできる雰囲気もある。このホテルのロビーに、あの坊主頭とポニーテイルのボディーガードたちがスーツ姿で歩けば、どんなにさりげなく存在しようとしても、ものものしさを隠しきれず、目立っただろう。宿泊客がどんな人間なのかは、ホテルの従業員にもよく分からない。ホテルは村上さんの作品にもよく登場するが、落ち着いた上品な空間でありながら、様々な人間が行き交うミステリアスな場所だ。
 1Q84めぐり、終了。今回感じたのは、青豆と天吾の過ごす環境の格差。同じ東京でも、青豆は洗練された上流階級の、しかし同時にびりびりした緊張を強いられる環境に生き、天吾は普通ののんびりした住宅街、しかし人目を避けて隠れ住む風情もある環境に生きている。
 そのまま生活していたら交わりそうにない二人の世界が、ふっと重なる、公園で二つの月を見上げる場面が、本当に美しいなと、改めて思う。お互いを呼ぶ小さな声が、近くて遠い場所にいる二人を徐々に引き寄せ合い、ささやかな公園で、さりげなく自然に、静かに重なり合う。
 もう一つ感じたのが、村上さんの無いものを視る力。首都高やホテル・オークラなど、普通ならただ通り過ぎる、都会の機能の一部としか認識されていない場所に、物語の入り口を見つけている。そんな場所から始まった、誰も見たことのない世界を、誰の頭にも思い描ける文章で書いている。リトル・ピープルが、何もないはずの空間から銀の糸をひっぱり出して、空気さなぎを作る儀式を思い出す。「1Q84」の世界はまったくの未知の世界ではなく、どこか懐かしい。頭の底に埋もれて、埃をかぶっていた部分の想像力を掘り起こしてくれるような。目に見えないエネルギーの鉱脈を探り当てる力が、別世界に通じる扉を開ける。

(わたや・りさ 作家/あんざい・みずまる イラストレーター)

村上春樹『1Q84 BOOK3〈10月―12月〉前編・後編』(新潮文庫)978-4-10-100163-0,978-4-10-100164-7