書評

2012年5月号掲載

台風の目に入る

――牧山圭男『白洲家の日々 娘婿が見た次郎と正子』

青柳恵介

対象書籍名:『白洲家の日々 娘婿が見た次郎と正子』
対象著者:牧山圭男
対象書籍ISBN:978-4-10-137952-4

 伊賀の肉が届くのでいらっしゃい、京都から鴨が届くからいらっしゃいと白洲正子さんからお誘いを受けて鶴川に馳せ参じるのは、私にとって何よりの楽しみだった。宴が終盤にさしかかると、同じ敷地に住む長女の牧山桂子さんとご主人の圭男さんとご子息の龍太さんの三人が、今日の宴はどんな按配になっているかなという感じで現れて、そのまま座に加わり、酒を酌み交わすことが多かった。大酒呑み相手では白洲さんも疲れるから、あとは私たちに任せなさい、という気持ちもあったのかもしれない。
 私はそういう席で牧山圭男さんと知り合った。圭男さんが同じ学校の先輩であるということも手伝って、私はすぐに圭男さんにうちとけた。圭男さんはよくしゃべる。そのおしゃべりは、しかし自分のためというよりも、客人の緊張をほぐすためのホスピタリティに発していると思われた。白洲さんが見せてくれる骨董を、こんなもののどこがいいのと小声で私に質問して、今度は私のおしゃべりのきっかけを作ってもくれた。
 圭男さんは、そんな言葉があるかわからないが、日曜陶芸家だ。楽しくて仕方がないというふうにやきもの作りの話をえんえんと語る。工房で焼きあがった器を見た正子さんが瞬間的にこれ頂戴とひっつかむように持って行った黄瀬戸のぐい飲みなど、石黒宗麿に迫る風韻をもっている一方で、児童の作陶と思われるような工作も止めない。作る行為が楽しいのであって、見映えのいいものを作ろうなどとは思っていないのだ。
 牧山家の食卓には、古染付、古伊万里、瀬戸や丹波の器に交じって圭男さんの作った器が並ぶ。これでどうだというふうに古い食器ばかりが並ぶ食卓につくと、やれやれご苦労なことだという雰囲気になるものだが、牧山家の食卓は古今混在の日常がある。古今の境目がまぎれてある日常は白洲家から受け継いだ牧山家の教養であろう。牧山桂子さんは、名品にはあまり興味がなさそうだ。使って楽しい物がいいものだと思うと主張し、そこに自然に圭男さんの器もまぎれている。
 言わば、白洲家にまぎれた牧山圭男さんの日常がつづられたのが『白洲家の日々 娘婿が見た次郎と正子』だ。いつか圭男さんは「白洲次郎一人でも付き合うのが大変なのに、そして白洲正子一人でも付き合うのが大変なのに、その二人と日常をともにするのはさぞかし大変でしょうとよく言われるが、そんな大変を感じたことがない。台風の目に入ってしまうと案外静かなものですよって僕は答えることにしている」と語ったことがあるが、台風の目は動く。台風の目がどこにあるか、客観的に判断する能力に圭男さんが恵まれていることを、私は本書を読んで強く感じた。
 ここに描かれている白洲次郎、白洲正子ともに充分魅力的だが、もしかするとそれ以上に恰好よく描かれているのが牧山桂子の存在だ。白洲次郎は「夫婦円満の秘訣は一緒にいないこと」と語った由であるが、牧山夫妻はいつも一緒だ。そして人前でも言い合いをする。始めのころは、私などはらはらしたものだが、どうも牧山夫妻は「夫婦円満の秘訣は討論にあり」という信念をもっているようだ。社交性を優先して、義をないがしろにするような言動を見ると牧山桂子は相手が誰であろうと許さない。しかし、相手の立場も考えてやれよというのが夫の優しさ。二人の討論は互いの筋を認めつつ続くのである。
 白洲次郎は一九〇二年生まれ、白洲正子は一九一〇年生まれ、共に現存していればゆうに百歳を超えている。昔の人と言うべきである。しかしこの本で語られている二人の時代を超えた新しさは、若者に訴える力を持っている。本書を一気呵成に読み終わり、私は本を閉じながら夫婦って何だろうなと目を宙に浮かべたことであった。

 (あおやぎ・けいすけ 国文学者)

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