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書評・エッセイ

金色の光を放つ明るみの中で

――曽野綾子『堕落と文学 作家の日常、私の仕事場』

曽野綾子

 私は小説を書くという仕事が、天職だなどと思ったことは一度もない。ただ書くことが好きだったのと、他に得意なことがなかったから、一生その仕事をし続けてきただけだ。
 昔私は二人の写真家を知っていた。どちらもまだそんな年齢ではなかったが、仕事にうちこんでいて、大家のような風格があった。
 一人は近東で動乱に会い、怪我をして日本に帰るまでの話をしてくれた。命に別状があるとは思わなかったが、足の傷は痛んだし、日本に帰らなければ傷が悪化する恐れがあった。普通に座席に座っていると傷が痛いので、彼は座席の下の床に寝ていた。最低の気分だった。しかし時々目の前をスチュワーデスが通る。その度にきれいな足が、彼のすぐ目の前を通って行った。
 僕は生きるぞ、と彼は思ったという。話を聞いている私はくすくす笑ったが、いい話だから、今でも忘れない。仕事は、そのような形で自分とごく自然に繋がって来たから、私の場合も書き続けられただけのことだ。
 もう一人の写真家もすばらしい芸術写真を撮っていた。彼は私に、どれほど冬の山を撮る時に辛い思いをしたかを語った。山と言えば高尾山しか登ったことのない私は、よくそんな恐ろしいことに耐えると思って聞いていた。それがついに私に、「そんなにお辛ければ、写真を撮ることをお止めになればいいのに」と言わせたのだろう。決して無礼な意味ではなかったのだが……。
 翻って私は、時々自分と書く仕事との関係を考えることはあった。そんなに辛ければ私は止めてしまうだろう。私は生まれつき、ドラマチックなこと、英雄的なことをひどく恥じる癖があった。人間はそんなものではない。どうやら耐えられると思うからずるずるやっているんだ、というくらいの感じであった。
 つまり私にとって、書くという行為は、今まで鬱病になった数年を除けば、ほとんど辛くなかったから続いたのである。私にはいつでも書くことがあったような気がする。
 それに私は、小説家に生まれついたわけではない。歌舞伎の世界のように、梨園の名家に生まれて、その仕事を放棄できないわけでもない。嫌ならいつでもその仕事を止められる気楽な場所に私はおいてもらっていた。
 作家の仕事には義務も責任もなかった。いつ止めてもいい。誰一人として困らない。ひっそりと止められる。書き手はいくらでもいる。
 しかし私は長い年月、書き続けた。呼吸するように、書いた。いつでも止められると思うから書き続けられた。何という自然で、静かな幸せだったろう。
 そのままいつ終わってもいいのだが、私はその経過を数年前、ふと書いておこうと思うようになった。誰かに言いのこしたい、というほどの思いでもない。多分読まないだろうが、強いて言えば、誰か物好きな読者の数人が目にとめてくださるかもしれないという程度の思いであった。
 確実な理由の一つは、私が自分の年を考えたからだった。もういつ死んでもいい年になっている。私は十三歳で第二次世界大戦の終戦を迎え、日本の最低の時期を経験した。それは人間としての私を磨いてくれた実に劇的な時期だった。
 それから七十年近く、日本は幸運な年月を経過した。自分の住む土地が断水したり、停電したり、食物がなくて餓えに苦しむこともなかった。それは私から見ると、いささか異常な事態だったと言える。人たちは「我々が安心して暮らせる社会」を平然と政治にも要求した。東日本大震災の後には、「想定外」の地震や津波が存在するということさえ、認めることを許さなかった。私は日本人は皆少し人間の常軌を失っていると感じたが、大体常軌を失うのは常に作家の方だということも、私は認めていた。
 書けるうちに自分の作家としての生活を書いただけだ。「光あるうちに光の中を歩め」というトルストイの有名な文言の後に、「食えるうちに食え」と言い足した人もいる。それがいいことか悪いことか、意味のあることかないことか、一般に動物は知らなくて当然なのだ。
 その間、私はすばらしい人生を見せてもらった。今や年を取ったおかげで、私はほとんどあらゆることに独自の思い出を重ね、それが苦しくとも悲しくとも、金色の光を放つ明るみの中で眺められるような気がしている。私はほとんどずっと現世に恋をし続けて過ごした。

 (その・あやこ 作家)

曽野綾子『堕落と文学 作家の日常、私の仕事場』978-4-10-311420-8